鎌倉在住の工学博士で歴史研究家の平井隆一さんが3月1日、これまでにない切り口で鎌倉をひも解いた「頼朝が幾何で造った都市・鎌倉」を出版した。
同書を手にする平井さん。「奇跡的に残された時間を使ってじっくり調べた成果」と自信をのぞかせる
「大学2年のときに鎌倉でたまたま見た風景がすべての始まりだった」と話す平井さん。「そのときの思いつきから半世紀を経てようやくまとめることができた」と続ける。
帰省した鎌倉の実家が改装中で、近くの長谷寺に泊めてもらうことになった。ある日、材木座・光明寺の山門に上がりその長谷寺を探すと、境内の石畳の道、総門、そのはるか向こうに見える長谷寺が一直線に並んでいた。不思議に思い持っていた地図を広げると、その線の中央付近で若宮大路が直角に交わり、山側にたどると鶴岡八幡宮があった。「これらに幾何学的な関係があるのではないかと直感した」と振り返る。
調べてみると、現在は異なる宗派だが、かつて長谷寺は光明寺の末寺だということが分かりあらためて驚いた。「もっと何かが隠されているのではないか」と疑問を抱き研究を始めたものの、卒業後、石油化学会社に就職して以降はゆっくり調べる時間が取れなくなってしまった。
定年退職後、JICAの一員としてアルゼンチンに赴任し3年後に帰国した際の健康診断で肺がんが見つかった。第3期だったが、手術や抗がん剤治療を経て「奇跡的に根治した」と言う。「無かったかもしれない時間だから、今こそ」と7年前、本格的に研究を再開した。
「歴史書を読んでみると、どれも鎌倉は京都のまちを模して造られたことが前提で語られていた。理系の人間としては、まずはそこを疑い新たな事実を探った」と話す。
分かったのは、源頼朝が鎌倉に幕府を開く5代前の源頼義が、すでに幾何学的に設計し寺社を配置していたこと。頼朝が鎌倉に入りからわずか5日後には現在の鶴岡八幡宮を配置し、若宮大路や幕府まで設計したのも「すでにあった都市づくりの基礎を利用したのではないかと考える方が自然」と推測する。
その後、「九条道家が鎌倉の西に幾何学的に大仏を配置したであろうことも読み取れた」ことから、本書には第2編として「鎌倉大仏~誰が建てたのか~」を加えた。
「自分でもこれほどはっきりと幾何が出てくるとは思ってもいなかった。今では鎌倉は幾何学の発祥の地であると断言できるほど」と胸を張る。
書籍化を前提に執筆していたが出版社につてはなかったため、各社に電話で売り込んだ。タイトルを言っただけで興味を示してくれたのが「鳥影社」(東京都新宿区)だった。掲載した写真のほとんどが平井さんの撮影によるものだが、鶴岡八幡宮の石段の1枚だけは、ちょうど100年前に平井さんの祖父が撮ったもの。倒れて今はない大いちょうの木陰を祖母と母親が上る姿が小さく写っている。
平井さんは「鎌倉のまちが偶然ではなく、人為的・計画的に設計・配置されたことを、歴史学や考古学の研究と組み合わせて明らかにしていくという新しい試みだった」と振り返り、「ごまかすことなく正確に書くとどうしても難しくなってしまうが、理系でなくても分かるように図解などビジュアルも多用した。多くの人に興味を持っていただけたら」と話す。
平井さんは、かまくら駅前蔵書室(鎌倉市小町1)で3月29日、松林堂書店主催の「出版記念トークショー」で講演する。
同書はB6版220ページ、巻末に地図付き。1,500円(税別)。鎌倉市内のほか全国の書店で購入できる。トークショーの申し込み方法はホームページで確認できる。